花火
実家を訪ねたこともないのに、いきなり田舎を訪れるなんて失礼なんじゃないかと一瞬思った。だけど日向もオレも、順番通りに付き合えるほど普通の時間を過ごしていないし、ましてや友情を越えて恋愛をしようとしているのに順番もクソもあるかとすぐに思い直した。
日向の田舎は、同じ埼玉でも限り無く群馬という辺りにあって、内陸の山に囲まれた盆地だった。その所為か、オレは後々北海道ならば一年分というくらい、汗を掻くことになるのだった。
「正直、新幹線に乗る距離じゃねえんだけどな」
たかだか30分が10分になるだけの為に2,300円は払えねえ、と言う日向の意見は、稼ぎの割に日向が節約型だからというわけではなく、オレも妥当な意見だと思った。
しかし地元埼玉で、しかも土日に在来線に乗車することは迷惑を掛ける相手もいる、と日向が考えるのも妥当な考えだ。特に今日の花火大会は関東でも有名らしく、まだ正午を過ぎたばかりなのに券売機も改札も混雑しているような気がする。日向は一見近寄りがたい雰囲気だが、礼儀正しい子供や学生には快くサインする。相手が大人でも、クラブのファンだと名乗られれば逆に礼も言う、そんな日向に人だかりができるのは至極当然で、一般客からすると『億プレーヤーが在来線に乗るな』といったところだろう。でもそこはそれ、節約型の日向だから。(地元では庶民派ということで、別の人気もあるらしい)
「こーゆー時、車買うかと思うな」
それでも一応そう考える日向は、現在クラブへ自転車で通っているらしい。オレも、札幌に在籍していた頃一度は買おうかと考えたが、結局いまも自転車通いだ。でも北海道と違って雪が降らないから、一年中乗れるし。筋トレにもなるし。
在来線よりは子供や学生が少ないホームで、オレ達は特に囲まれることもなく新幹線に乗り込んだ。ホームに居たのは僅かな時間だったのに、それでも立っているだけでいつの間にか汗が流れていた。オレは、東京に来て初めて蝉の鳴き声を聞いたことを思い出していた。
乗り込んだ車内では、オレのこと子供だと思ってる日向がいつものように窓側をオレに譲る。そんなオレも、車窓の景色へ目を遣るふりをして、日向と視線を合わせずに済む窓側は都合がよい。普段はなんてことないのに、こうして隣り合って座ったりして、一度意識してしまうと日向の視線は戸惑ってしまうほど力強い。そしていつも、オレの何かが見透かされているようで、落ち着かないのだった。
「松山」
「え?」
「聞いてんのか? なんか飲むかっつったんだ」
え、じゃあ冷たいお茶、麦茶みたいな茶色いヤツ、と答えると、日向は連結部の自販機へ行ってしまった。こういう狭い車内だと、通路を行く日向がより大きく見える。ジーンズに、祖父母の家へ行くからか、幾分きちんとしたポロシャツを着ている。黒の無地のヤツ。革のベルトに、ウォレットチェーン、クロノグラフのシンプルな出で立ちなのに、休日のサラリーマンにもましてや大学生にも見えないのは何故だろう。冷房の苦手なオレは、Tシャツに一応ジャケットを羽織ってるんだけど、そういえばどう見えるのかな。そんな取り留めのないことを考えていたら、いきなり首筋に冷たいものを押し付けられた。
「っつめて!」
驚いて払いのけるオレを、日向が面白がって笑っている。こんな風に、普段は誰にも見せないふざけた笑顔を見せられると、日向のこと特別に思ってしまう。オレって簡単かもしれない。
「新幹線になっちまったら、弁当食ったりコーヒー飲んだりそんな距離じゃねえんだけど。なんかつい買っちまうんだよな。昔の習慣かな」
そう言った日向は、弁当こそ買ってこなかったがコーヒーを飲んでいる。そういえば、移動とかもいつも寝ちまって、こんな風に何か飲んだり話したりって、結構めずらしいかもしれない。
オレは、日向がオレの知らない部分があることを見せることにちょっと(ホントはたくさん)嫉妬したり、だけどオレ以外の誰もが知らない日向をオレだけが知ったことにこっそり優越感を抱いたりする。
日向は、オレは日向がオレを思うほど日向のこと好きじゃないって時々言うけれど。
こんな気持ち日向以外に抱いたことないのに、日向にはそれ以上の何があるって言うんだろう。
新幹線は、日向が買ってきた麦茶を飲み干す前に、あっと言う間に次のホームへ滑り込んだ。
日向の祖父母の家は、商店街のある駅前とは反対側のバスターミナルから隣の市へ向かう路線バスに乗り、大きな橋を渡った田園地帯にあった。日向はサングラスをしていたし、オレは自分で言うのもなんだけど、ユニフォームを着ていないとその辺の大学生と変わりがないので、一番後ろの席に座ってしまえば誰も気付きはしなかった。オレが小学生だったら、正直『日向選手』が同じ路線バスに乗っているって気付いたら大騒ぎだろうな。オレは日向とは別の意味で庶民派というか、なんかフツーに話し掛けられたりするんだけど、日向にはその場の空気を変えるような存在感がある。こんなこと、思っても口では認めないけど。橋を渡り四つ目のバス停で降りた時、窓側のブレザーの多分高校生がオレ達を指差していたが、既にバスは走り出していた。
「ザリガニの匂いがする」
「お前スゲーな」
日向の話では、近くに養殖場があるとのことだった。オレは、田んぼからするのかなと思っていたので、それはそれでちょっと驚いた。日向の祖父母の家は、TVでしか見たことのないような平屋の農家で、オレは続けざまに驚かされることになった。北海道出身のオレにとって、縁側のある日本家屋に実際上がるのは初めての体験だった。旅館とかとは、全然違う。
「スッゲー、カッコイイ!」
「たまに来るならな。住んだら大変だぜ」
日向の話では、雪は降らなくてもこの土地で冬を過ごすのはとても大変らしい。
「農家っつっても結局は自営業だからな。借金のカタマリだ」
日向の稼ぎならどうにでもなりそうだけど、頼まれもしないのに日向はそういったことを申し出るのは遠慮するタイプだし、日向の祖父さんならもし日向が申し出ても断るんだろうなとなんとなく思った。会ってみると、日向のお祖父さんは本当に日向そっくりで(いや、日向が祖父さんに似てるのか)、日向の父を見たことはないがきっと母方の隔世遺伝に違いないというくらい、将来の日向を見ているようだった。日向の母は先に着いていて、お祖母さんと一緒に麦茶とスイカを出してくれた。
「お世話になります。図々しくお言葉に甘えてすみません」
富良野では親戚がすべて近所に住んでいたオレは、恥ずかしながらこういった挨拶になれていなくて、カチカチになりながら現在所属する千葉の手土産を差し出した。先に着いていた日向の母は、若島津や反町もよく来るのだと言って、遠慮しないようにと言ってくれた。
「日向…くんは、」
日向の身内の前で、日向を何と呼べばいいのか戸惑いながらヤツを捜すと、荷物もそのままいつの間にか日向は屋根に上っており、祖父さんの指図で雨漏りする箇所を修理しているようであった。後でもいいでしょう、と声を掛けるお祖母さんに、日向の祖父は「いい歳して遊びに来ただけじゃないだろう」と言って、日向にそれが終わったら竹垣に腐っている部分があるから直しておけと付け加え、田んぼに行ってしまった。だけど日向はまんざらじゃないって感じで、オレも、日向だけ体を動かしてるのは落ち着かないので、日向が屋根を修理している間に竹垣の腐った部分をバラすことにした。オレの生れ育った土地では、笹はあっても竹はないので、竹垣自体新鮮でワクワクしたりもした。
「結び目が緩んで地面についたから、腐ったんだな」
いつの間にか屋根から降りてきた日向が、オレのバラした竹を見て誰に言うでもなく呟いた。悔しいけど、料理もこなす日向は意外と器用で、濡らした縄で結び目も美しく竹垣を組んでいく。
「ちゃんと持ってろ」
「持ってンだろ!」
オレはというと、日向が縄を結んでいる間竹を持っているだけ。それなのに汗は首筋を伝わる前に顎から落ちる。だけど何故か面白くなってきて最後のほうはずっと声を上げて笑っていた。
「なんか一緒に作るのとか初めてな」
「あー、若島津とかとはよくやるけどな」
アイツんちは本格的な日本家屋だぜと日向が言った、若島津の実家には庭園もあるらしい。
ふとオレと日向の間には今迄サッカーしかなかった事に気が付いた。
オレ達、この先いくつの初めてがあるんだろう。
その度に、オレは若島津や反町にちょっぴりヤキモチを焼いて、でも嬉しくって口の端が上がってしまうのかな。
オレはなんだか急に恥ずかしくなって、日向から顔が見えないように祖父さんの居る田んぼのほうを見るフリをしたりした。ほぼ再度組み上がった竹垣を見て、日向のお祖母さんがお風呂が沸いていますよと言った。
入道雲の向こうは深い青空で、日向とこんなのんびりした時間を過ごすのも初めてだと思った。
日向は。どんな気持ちでオレを誘ったんだろう。
風呂から上がると、今時冷房がなくて済みませんとお祖母さんが除湿機を持ってきてくれた。慌てて代わりに除湿機を運んでいると、日向のお母さんが浴衣を持って客間に入ってきた。
「小次郎の着古しでごめんなさいね」
そう言って日向の母はたたんだ濃紺の浴衣を畳に並べ、「汗が引いたら着替えましょう」とまた麦茶を注いでくれた。オレは正直浴衣や着物は着たことがなくて(もしかしたら七五三とかに着たのかもしれないが)、内地の人は着るのだろうかとかぐるぐる考えたり、お祖母さんがまた切ってくれた西瓜を齧っているうちに日向も風呂から上がってきた。驚いたことに日向は自分で着付けができるらしく、汗をぬぐうと自ら浴衣に手を掛けた。当然のようにオレも脱がされ、結局日向のおさがりを着ることになる。パンツ一丁で日向の母の前に立たされた、ここではオレも大きな子供というわけか。
「それ、オレが高校ン時の。ちょうどいいな」
くすっと笑う日向を、日向の母はたしなめ松山くんに合うよう丈を伸ばしたのよと言ってくれた。
「小次郎はちゃんと家事も手伝ってくれたけど、ほかの子が小さかったから。家でできる仕事をと、和服のお仕立てを内職でしていたんですよ」
だから日向も自分で着れるのか、と納得しながら振り向くとヤツはもう帯を結んでいた。さっきの竹垣といい、こんなふうになんでもできるのはちょっと憎たらしい。しかも、帯が結べるなんて内地に住んでるからって当り前ではないのだろうと思うと、ちょっとカッコイイと思ってしまう自分が物凄くヤだった。そんなオレの気持ちを察したように、日向がニヤニヤと笑う。
「男結びって言うんですよ」
いつの間にかオレは海老茶の帯を巻かれ、後ろを向かされていた。日向は、前で結んでクルッと後ろに回していた。慣れたカンジがまた憎たらしい。
「結び目は、ちょっとどちらかに寄せたほうが粋ですからね」
そう言って帯を結び終えた日向の母が、ぽんとその上を叩く。
鏡が無いから自分では見えないのに、日向の着ている様子を見てオレは急にわくわくしてきた。
「うわー。これが祭りか、ってカンジ! オレ、こんな本当のお祭り初めて!」
見えないのに、自分がとても格好良く思えた。ユニフォームとはまた別の高揚感だ。
浴衣の直線的なラインは日向の長身をより引き立て、浅黒く野性的な肌に知性を加えている佇まいもまたユニフォーム姿とは違う。肩から手首、踵まで素肌を覆い隠しているのに、胸元だけ鋭く切れ込むその肌はやけに艶っぽくすらある。だけどなにをしても特別な存在を決して認めようとしないオレも、そーとー意地っ張りだなと思った。
「花火大会までまだ時間がありますから。夕食おあがりなさい」
そう言って、お祖母さんが食事の用意がしてある居間へいざなってくれた。そこからはもう、嬉しー楽しーが抑え切れなくなって、まるで小学生のガキのように御馳走になってしまった。日向がまたくすっと笑ったが、もうそんなのお構いナシだった。
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